画家 數野さんのこと

画家 數野さんのこと -高澤 節

數野さんは信念の人です。東京芸術大学を首席で卒業し、助手として大学に残り任期を終えたのち、ヨーロッパに進学した彼は一筋に絵を描いてきました。多くの若手が、奔流となって日本にやってくる世界の動きに右顧左眄する中で、いささかも動ずることなく我が道を貫いてきたのです。勿論、彼なりの実験を重ねてきましたが、それは時流とは関係なく、絵画として表現すべきは何であるかを、自らにつきつけての作業でした。そして現在の絵画があるのです。さりげないモチーフをさりげなく描きながらそのモチーフの存在感は磐石の重みをもって画面に座っているのです。筆の動きは信念をもって迷うことなく走り、絵の中に躍動し、色彩の魔力と相まって、その画面の密度と充実感は観るものを圧倒する力をもって迫ってくるのです。
これが絵画だ。油絵のもつ魅力を充分に堪能させてくれる絵描き、それが彼なのです。

2001年4月
池田町立美術館長
高澤 節

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數野繁夫の軌跡 -造形と原泉の探求-

數野繁夫の軌跡-造形と原泉の探求 -島田紀夫

 1940年(昭和15年生まれ)の數野繁夫は昨年(2000年)還暦を迎えた。
年譜を見ると1965年3月に東京芸術大学を卒業しており、卒業制作の<人とヒト>が芸大買い上げになった。
池田町立美術館で開催される「數野繁夫の軌跡」展には、卒業制作の<人とヒト>のための連作と<自画像>他に、芸大在学中の作品が展示されている。最も古い制作は1961年の<芸大内の風景>と1963年頃の<四角柱>、最も新しい制作は2000年の<サンマルツァーノ種トマトのある処>。この展覧会でほぼ40年にわたる數野繁夫の画業の軌跡をたどることができる。
 還暦の次の年、21世紀の最初の年に、「數野繁夫の軌跡」と題した回顧展が開けるのは画家にとって幸せである。數野は1981年から東京のフォルム画廊で個展を続けてきた。その最初の個展(1981年)の折りに筆者は一文を草したことがある。今から振り返ると、40年の画業のちょうど中間点であったわけだ。40歳代になったばかりの春秋に富む數野の未来に期待を込めて書いたささやかな文章だが、彼はその期待に充分にこたえる仕事をその後の20年で果たしてきた。その文章の中で數野の親しい友人であり良きライバルでもあった山田輝夫と加賀美勣のことにも言及したが、残念な事にその二人はもうこの世にいない。回顧展が開ける數野は幸せであるという感想には、そうした感慨が込められていないわけではない。

 今回の個展は年代にしたがって二部構成になっており、その分岐点は1980年前後である。
前半の20年間の作品は1981年のフォルム画廊での個展の出品作と時期的に重なっており、筆者にとっても懐かしいものが多い。分析的キュビズムの実験を思わせる<人とヒト>以来の一貫した課題を追求した作品が大半をしめる。キュビズムの主要な関心事は三次元の立体を二次元の平面にいかに還元するかということにあった。しかし數野の関心は平面上のフォルムをいかに結合するかにある。
 芸大在学中の裸婦習作が今回展示されているが、裸婦像はいまでもアカデミックな美術教育の基本的な訓練科目である。だがここにもすでに、平面上のフォルムの結合たいする画家のなみなみならぬ関心を読み取ることができる。やがてその関心は<紐>の連作に発展するが、それに関してかつて筆者は次のように書いた。「画面上の構築性が最も明白に示されているのは<紐>をモティーフにしたシリーズであろう。ほとんど抽象的な構成に達しているが、それを面や線の幾何学的な構図としてではなく、日常見慣れた<紐>として表現したところに、數野氏の創意とアイロニーがうかがえる。これは、(數野の恩師である)山口薫が太平洋戦争勃発直前に発表した<紐>に遠く呼応していると言えないだろうか。」
 この<紐>のシリーズは。続く<雨>のシリーズとならんで、前半の數野の画業の主要な流れを形成する。こうした構図上の探求の中に、静物や裸体が組み込まれてゆくのである。

 1980年以後のの20年間の數野作品の軌跡のひとつに静物があることはまぎれもない事実である。
その静物も、百匁柿であり、いんげん豆であり、ぶどうであり、唐がらしであり、つまり彼の身の回りにある日常的な静物である。彼は生まれ故郷の甲府の山麓で自然にかこまれながら一見のどかな田園生活をおくっているが、これらのモティーフはその一隅にさりげなく存在する。しかしいったん画面に登場すると、新たな生命をおびて画家の意思を力強く主張しているように見える。それは自然に潜在する秘密の生命力を示唆しながら、画家が意図的に画面を構成したのだ、という主張である。画面構成だけでなく、朱色と緑色を対比させた色調の効果も意図的である。だが画家の手続はそれほどあざとくないので、私達は日常的なモティーフによってみごとに配列された静物画を安心して見ることになる。

 前半と後半の境に描かれた1980年前後の作品の中に画家の私生活を偲ばせるものがある。<婦人像(美春)><雪の時><螢時>などの人物画は、彼の家族を描いたものだろう<晩秋><木の間の風景><春薫夜><山間の春>は周囲の自然の風景である。特に<夕暮れの時>は農作業を描いた珍しいモティーフだが、ここは數野芸術の展開をさぐる上で看過できないひとつの源泉がある。
 數野は幼い頃ミレーの<晩鐘>の複製画に感激し、将来農民画家になろうと思ったという。數野芸術の源泉には故郷の自然と農民(と農作業)に対する愛着があり、それを大切にしている。ミレーの農民画に感激した幼い頃の心をいつまでも見失わずにいる画家の姿勢を見逃してはならない。山梨県立美術館が設立されたときから數野は美術館の絵画教室で実技指導をしてきたが、この美術館がミレーの<種をまく人>とバルビゾン派の作品を主要なコレクションとしているのは周知の事実。これも何かの縁で結ばれているのかもしれない。

 數野はサインを”S.Cazuno”と書く。このサインはキュビズムの誕生を促した後期印象派の代表的画家ポール・セザンヌのサイン”P.Cezanne”によく似ている。セザンヌは生まれ故郷である南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに蟄居しながら造形的な探求を続け、20世紀美術の幕開けを告げる美術運動を起こしたピカソやブラックに衝撃的な影響力をあたえた。數野がこのことを意識して自分のサインを考案したのかどうか、まだ本人にも確かめていない。

(しまだのりお/山梨県立美術館長・実践女子大学教授)

數野繁夫の軌跡」展(2001.04.28〜07.29)@池田町立美術館より


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「私の軌跡」展にあたって

「私の軌跡」展にあたって -數野 繁夫

 A28 芸大の学生時代、キャンバスの裏に記した出席番号である。
題名、制作年、サインを記したのは、卒業制作の「人とヒト」が最初の様に記憶している。今回の展覧会の準備にあたり作品群のせいりをしつつ、年代の記していない作品には我ながら閉口してしまった。
頭の隅では、年代、題名などを記すことは、大切なこととは思いながらも、気恥ずかしさ。夢精だったことへのシッペ返しを今頃受けている気さえするのです。
今更ながら、サイン、年代を記すことは、絵かきの躾として大切なことと思われます。
一方、題名を記すことには、如何なる意味があるのだろうか、いつも四苦八苦のてい、苦肉の策ではないが、いつの頃からか「〜のある処」と云う題名のスタイルが定着し、今では私の専売特許になりつつある。
物事を断定せず、イメージを包み込むような余韻を感ずる「〜のある処」なのです。
「〜のある所」ではだめなのです。
同様なこだわりがもうひとつあります。
それは ” 曲線 ” です。
自然の造形物の中に、直線でなりたっているものを見出すことは難しい。
直線は、物事を決めつけ、押し付けがましさを感じます。
テーブルの輪郭線も、直線は使いません。
絵画の”形”として、テーブルを感ずれば良いのであって、写真の如く具体的に説明する必要もないと思えます。
「絵の中のホント(本当)」になっていれば良いと思えるのです。紐、雨、静物などのシリーズの時、モチーフは変わっても、この曲線に対するこだわりは変わりません。
最近の私の作品は、書体でいうなら、楷書体ではなく、草書体になっている。物と物が互いに連動し、関係しあい一つのうねりになり、或るエネルギーを造り出す。私は、それ等のモチーフを、絵の中でコントロールする指揮者の役割を演じている様に思えるのです。

2001年4月1日
數野 繁夫

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