数野 繁夫  Shigeo Cazuno

(1940年04月19日生 - 2013年12月07日没)
山梨県甲府市出身の数野繁夫は東京芸術大学に学び、
故山口薫氏の薫陶をうける。
その後公募団体には属さず自己の絵画思考を忠実に、
数々の変遷を経つつ、独自の画風を確立し現在最も注目を集める
作家の一人として画壇に揺るぎない地位を確立する。
その作品は山の幸、そして身辺の風物を主題に重厚に描写され、
構成された夫々のモチーフは互いに反響しあい緊張を保ち、
画面の底から生命の力が湧き出ずる感がする....。


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2013年
12月7日 永眠(享年74)

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2001年
池田町立美術館(長野県池田町)主催企画による「數野繁夫の軌跡」展を開催(会期:4/28〜7/29)

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1997年
「數野繁夫個展」(日本橋高島屋6階美術画廊・大阪なんば高島屋5階画廊)開催
「正方会」(神田画廊:名古屋)に出品。以後毎年2000年まで出品
雑誌『暮しの手帖 別冊ご馳走の手帖98年度版』(暮しの手帖社)に「秋の果物」というタイトルで數野の作品とコメントが掲載
10月19日の『読売新聞日曜版』に<花梨のある処>と芥川喜好による作品解説が掲載

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1996年
「12人の作家展」(神田画廊;名古屋)に出品。以後毎年2000年まで出品

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1989年
「立軌会」同人となる。以後毎年、出品。

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1988年
日本大学芸術学部美術学科で絵画コースの講師を勤める(1988年4月〜)
お年玉年賀ハガキ山梨県版の図案を依頼され(御坂峠の富士<水彩>)を描く
「耕人会」結成。以後毎年、出品。(サエグサ画廊:東京銀座)
雑誌『月刊美術』<(株)サンアート>1988年11月号に數野をインタビューした記事「自然と共に生きる制作活動」が掲載。

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1985年
「数野繁夫個展」(日本橋高島屋6階美術画廊・大阪なんば高島屋5階画廊・名古屋丸栄画廊)開催
「丘の会」(蔵丘洞画廊:京都)に出品。以後毎年、1989年第5回展まで出品

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1983年
長男:竜具誕生。
「瞬生会」(瞬生画廊:東京銀座)に出品。以後毎年、1992年第10回展まで出品
「數野繁夫小品展」(横井美術:東京銀座)開催
第22回「国際形象展」に<スイカのある処>、翌年第23回展に<隼人うりのある処>を出品

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1982年
「数野繁夫個展」(名古屋画廊:名古屋)を開催。以後1988、90、94、96年に開催。
「明日の画家展」(フォルム画廊:東京銀座)に出品。以後毎年、1989年第8回展まで出品
朝日カルチャーセンターで講師を勤める(1982年10月〜)
雑誌『月刊新山梨』(新山梨社)の表紙を依頼され1982年9月号から1985年3月号まで手がける。

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1981年
「数野繁夫個展」(フォルム画廊:東京銀座)を開催。以後1983、87〜99年の隔年、200年〜毎年開催
井上美春と結婚。この頃より、制作活動の中心を千葉県のアトリエから故郷である山梨県甲府市の自宅に移し、身のまわりの自然や作物、家族を題材に描きはじめる。
「至宝会」(横井美術:東京銀座)に出品。以後毎年1996年第16回展まで出品。
雑誌『アート・トップ』No.66(芸術新聞社)に取材記事及び島田紀夫執筆による「數野繁夫氏のこと」が掲載。

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1978年
山梨県立美術館が開館し、同館が開催した実技講座で絵画を指導する。以後毎年、1980年を除き1990年まで指導
「山梨美術協会展」に<紐おどり>を出品。同協会会員となる。以後毎年、出品。
「レ・ソール」展(梅田画廊:東京)に出品。以後毎年、1997年まで出品。
第2回「具象現代展」(上野松坂屋)に<花>、<紐>を出品。

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1976年
加賀美勣と二人展(名古屋画廊:名古屋)を開催。以後1978、80、84、86年に開催。

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1971年
アトリエを甲府の自宅に築くも、千葉県のアトリエが制作の中心となる。
昭和40年に東京芸術大学油絵科を卒業した同窓生らとともに「グループ’40」を結成、以後毎年、1999年第23回展まで出品。
「現代日本新人絵画展」に(馬と少年)を出品
欧州への留学を考えていた頃、留学という形ではなく美術の歴史を遡ってみてはどうかという脇田和の助言がきっかけとなり、紀元前から現代に至る美術を見ようとフランス、ベルギー、イギリス、スイス、スペイン、モロッコ、イタリア、ギリシャ、タイ等を約4ヶ月かけて一人旅する。この度で數野は自分の生まれ育ったところが思考、判断の原点になると直感する。

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1970年
「枝英会」(サエグサ画廊:東京銀座)に出品

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1969年
東京芸術大学で助手を勤めていた10人のメンバーで「十騎会」を結成、現在に至る。

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1968年
東京芸術大学油絵学科助手を勤める(〜1969年)。森元草介と二人展(山崎画廊:東京)を開催。

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1967年
<影>、<日だまり>、<紐>シリーズの制作に取り組む。ものの影、曲線を描くことで、ものが持つ存在感を追求するなど制作意図、テーマがより明確化してくる。
東京芸術大学大学院を修了し東京芸術大学油絵科副手を勤める。
東京芸術大学を卒業した甲府第一高等学校の同窓生グループ「ごいす」を結成。以後毎年、1988年まで出品。

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1965年
卒業制作<人とヒト>が買い上げとなる。東京芸術大学(山口薫教室)卒業。同大学油絵科に進学。千葉県にアトリエを構える。
現・学校法人高澤学園すいどーばた美術学園っで指導する(〜1981年)。

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1961年
東京芸術大学油絵科に入学。牛島憲之、2年目より山口薫に学ぶ

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